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歴史的沿革

    日本殖民統治時期(1895-1945)

     
    明治二十八年(1895年)、馬関条約(下関条約)調印により台湾は日本の植民地になりました。六月十七日、清朝統治時代の地方行政区を引き継ぎ、台湾を台北県、台湾県、台南県の三県、及び澎湖島庁に区分し、嘉義県は嘉義支庁に改められ、台湾県の管轄に置かれました。八月二十日、地方行政区は改正され、台南県は台南民政支部となり、嘉義支庁は台南民政支部管轄の嘉義出張所に改編されました。

    明治二十九年(1896年)三月、台北、台中、台南の三県、及び澎湖島庁に改編、嘉義支庁は引き続き台南県に属しました。

    明治三十年(1897年)五月、地方行政区は六県三庁に改編され、支庁は弁務署に改められました。これに伴い嘉義、雲林両支庁は合併して嘉義県となり、その下に十四の弁務署が置かれました。現在の嘉義市を含む嘉義県には、中埔、梅仔庄、打?、嘉義、樸仔?に弁務署が置かれました。

    明治三十一年(1898年)六月、地方行政区は台北、台中、台南の三県、宜蘭、台東、澎湖の三庁に改編され、台南県には八弁務署が置かれました。現在の嘉義市を含む嘉義県には、嘉義、打?、樸仔?に弁務署が置かれました。

    明治三十四年(1901年)、地方行政区の改正により弁務署は廃され、また県は庁となり、嘉義庁を含む二十の庁が組織され、庁の下に支庁が置かれました。 。

    嘉義庁は嘉義西堡嘉義街に置かれ、その下に樸仔?、東石港、新港、打?、中埔、梅仔坑、大?林の七支庁がありました。管轄地域は嘉義西堡、嘉義東堡、大目根堡、打?東頂堡(旧嘉義県に属した地域)、打?東下堡、打?南堡、打?北堡(旧嘉義郡に属した地域)、打?西堡、牛稠溪堡、大?榔西堡、蔦松堡(旧嘉義県に属した地域)、大?田西堡、大?榔東下堡、鹿仔草堡、柴頭港堡です。

    明治四十二年(1909年)、二十の庁は十二となり、嘉義はそのうち一つの庁になりました。「番社」は十九置かれました。

    嘉義庁庁署は嘉義街に置かれ、三十六の堡、十二の支庁、六十三の区長役場、五百五十五の街庄を管轄しました。

    今の嘉義県の地域には中埔、竹頭崎、打?、樸仔?、東石港の五つの支庁がありました。

    大正九年(1920年)、地方行政区の改正で西部の九庁は五州に改編され、州の下に郡、市が置かれ、郡の下には街、庄が置かれました。

    これにより台南州は一つの市と十の郡に編成されました。今の嘉義市を含む嘉義県には嘉義郡、東石郡が置かれ、嘉義郡の下に一つの街と十の庄、及び「番地」が、東石郡の下には一つの街と六の庄が置かれました。

    昭和五年(1930年)一月二十日、市制施行に伴い嘉義街は市に改編されますが、嘉義郡郡役所も依然嘉義市に置かれました。
    嘉義郡には十の庄、及び「番地」がありました。それらは、水上庄(水上郷)、民雄庄(民雄郷)、新巷庄(新港郷)、溪口庄(溪口郷)、大林庄(大林鎮)、小梅庄(梅山郷)、竹崎庄(竹崎郷)、番路庄(番路郷)、中埔庄(中埔郷)、大埔庄(大埔郷)、「番地」(阿里山郷)です。

    東石郡には一つの街と六の庄がありました。それらは、朴子街(朴子市)、六?庄(六?郷)、東石庄(東石郷)、布袋庄(布袋鎮)、鹿草庄(鹿草郷)、太保庄(太保市)、義竹庄(義竹郷)です。
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