コンテンツに行く
:::

歡迎來到嘉義県政府日本語網站

嘉義県政府日本語網站

:::

歴史的沿革

    鄭氏政権時代(1661-1683)

     
    明の永?十五年(1661年)四月一日、鄭成功は鹿耳門(台南市安南区顯宮土城一帶)に上陸し、十二日、鄭成功自ら蚊港に赴き地勢を調べました。五月二日、プロビンティア城(赤嵌楼)を東都明京とし、承天府、天興県、萬年県の一府二県を設置しました。今の嘉義県は天興県に属していました。

    永暦十八年(1664年)八月、鄭氏は県を州に改め、これにより今の嘉義県は天興州に属する事になりました。

    鄭氏は下部の行政組織を「鎮營」、「里社」と名づけました。

    鄭氏は軍隊を各地に派遣し、そこで駐留と同時に開拓を行わせ、地元住民を統治しました。今の嘉義県には、「鎮營」の地名はありませんが、駐屯軍による鎮營があったことを窺い知れます。義竹郷の援剿後鎮、鹿草郷の武驤左鎮、水上郷、嘉義市の智武鎮、民雄郷には「營盤」の地名が残っています。

    一般の村社の地名は、清朝が台湾統治を始めた時期に、鄭氏が清朝に降伏し朝廷に献上した地図の中に見ることが出来ます。それは今の嘉義県でいえば、蚊港、?里山(即ち阿里山)、打?社で、これらはオランダ統治期にすでに存在していました。さらに龜佛山、土獅仔(六?郷塗獅村)、南世竹(即ち南勢竹)、茄藤林(太保市春珠里)の村社です。

    伊能嘉矩(1867-1925)に拠ると、「清朝以前」にすでに開墾されていた場所は、今の嘉義市を含む嘉義県では、嘉義堡、打?南堡、大?榔西堡、鹿仔草堡、龍蛟潭堡の五堡がありました。『臺灣開發史話』に拠ると、今の嘉義縣はすでに開拓されており、朴子、鹿草、水上、太保、六?、民雄がありました。

    つまり鄭氏時代には、今の嘉義県は開墾が進み、沿海一帶の郷、鎮がその中心で、中でも六?郷はもっとも開拓が進み、山側では民雄と中埔郷の開墾が進んでいたことになります。

    :::