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歴史的沿革

    清朝統治期-嘉義縣(1788-1895)

     
    乾隆五十二年(1787年)十一月三日、林爽文の乱が発生した時に、諸羅県民はその忠義により乾隆帝により、「諸羅」に「嘉義」の名を賜りました。これが嘉義県の名前の由来です。

    道光年間(1821-1850)、嘉義県の地方行政区は四十一の「保」に分けられ、「保」の下に「莊」が置かれました。

    それらの地域の全て、または大部分が今の嘉義市を含む嘉義県にあったものは、嘉義西保(六四庄、今の水上郷、嘉義市)、白鬚公潭保(三三莊)、嘉義東保(一四六莊,今の竹崎郷、番路郷、中埔郷、大埔郷一帶)、牛稠溪保(一九莊)、大目根堡(七六莊)、柴頭港保(三九莊)、打猫東頂保(六六莊、今の大林鎮、梅山郷、雲林県古坑一郷帶)、打猫東下保(五○莊、今の大林鎮、民雄郷、竹崎郷一帶)、打猫西保(一八莊)、大猫榔東保(一二莊)、大猫榔西保(五一莊)、打猫南保(六五莊)、蔦松保(八莊,今の東石郷、雲林県水林郷一帶) 、打猫北保(一五莊)、大猫田西保(六○莊)、鹿仔草保(一九莊)、龍較潭保(三○莊)の十七保です。

    またその地域の一部が嘉義県に含まれていたものは、下加冬北保(五四莊)、下加冬南保(四二莊)です。ます。

    同治年間(1862-1874)初期、嘉義県は三十六の保、九百三十六の荘に区分されていました。

    その地域の全て、または大部分が今の嘉義市を含む嘉義県にあった保は十五で、その保、荘の元の名称と数の変動は以下の通りです。

    嘉義東保(四十莊)、大目根保(三十九莊)、打猫東上保(三十六莊)、打猫東下保(三十一莊)、白鬚公潭保(四十四莊)、嘉義西保(三十二莊)、鹿仔草保(十三莊)、龍蛟潭保(二十二莊)、柴頭港保(三十五莊)、大猫榔保(十五莊)、打猫西保(十七莊)、打猫北保(二十四莊)、打猫南保(三十九莊)、大猫田西保(二十二莊)。

    地域の一部が今の嘉義県に含まれていたものは、下茄苳南保(二十八莊)、下茄苳北保(三十八莊)です。

    光緒元年(1875年)嘉義県と台湾県は曾文溪を境界として、光緒十四年(1888年)、嘉義県の北は雲林県になりました。

    その地域の全部または大部分が嘉義市を含む今の嘉義県にあったものは、嘉義首堡、嘉義東堡、大目根堡、牛稠溪堡、打猫北堡、打猫東頂堡、打猫東下堡、打猫南堡、打猫西堡、白鬚公潭堡、龍蛟潭堡、鹿仔草堡、大猫田西堡、大猫榔東下堡(太保市、鹿草郷一帶)、大猫榔西堡、蔦松堡等十六堡です。また地域の一部が嘉義県に含まれてものは、下茄苳南堡之牛稠埔莊(水上郷牛稠埔)、番仔寮莊(水上郷番子寮)、三界埔莊(水上郷三界埔)及び下茄苳北堡之三角仔莊(鹿草猫三角子)です。
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