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歴史的沿革

    清朝統治時代-諸羅県(1684-1787)

     
    清の康熙二十三年(1684年)、台湾府、台湾県、諸羅県、鳳山県の一府三県が置かれました。今の嘉義県は諸羅県に属しました。諸羅県は四里、三十四社に区分されました。今の嘉義には「里」はなく、オランダ統治時代から存在していた打?社、阿里山社、奇冷岸社があり、後に大居佛社(即ち大圭佛社)が加えられました。

    康熙三十三年(1694年)頃、諸羅県は四里、十四莊、四十社となり、今の嘉義県には、当時の諸羅県下の十四莊の半分の七荘がありました。

    その中の龜佛山莊、南勢竹莊(即ち南世竹)は鄭氏時代から存在していました。そこに鹿仔草莊、大?田莊、龜仔港莊、?榔莊(朴子市)、打?莊(民雄郷)の五莊が加えられました。

    康熙年間の?年までに諸羅県は四里、九保、九莊、九十五社、二十三街市に区分されました。

    九莊の中の「外九莊」は一莊としみなして、総数を九荘としていますが、もし「外九荘」を一つ一つ数えるなら、全部で十七荘になります。
    今の嘉義県には、元の荘以外に北新莊(民雄郷北勢子、新庄子附近)が加えられました。土獅仔莊は鄭氏時代の「土獅仔」で、元の「?榔莊」は大小?榔莊になりました。
    九十五社中、今の嘉義県にあるのは、元の社以外、干仔霧社(オランダ時代にオランダに帰順)、踏枋社、鹿楮社、??婆社、盧麻?社(竹崎郷鹿滿村)です。

    二十三街市の中で、今の嘉義県にあるのは、笨港街(新港郷、雲林県北港鎮一帶)、土獅仔街、猴樹港街(朴子市)、打?街(打?莊)です。笨港は康熙年代に魍港に替わり、今の嘉義県内で最も栄えた市鎮でした。雍正九年(1731年)諸羅県県丞(副知事)が置かれ、「県丞は笨港に駐留して、地方や船舶の査察を行いました。」

    雍正元年(1723年)虎尾溪以北が分けられ、彰化県と淡水庁が置かれました。

    乾隆七年(1742年)諸羅県は四里、七保、十七莊、三十四社に区分されました。今の嘉義県の莊、社、街市は、元の管轄地と同じです。

    乾隆三十年(1765年)諸羅県は四里、四十六保、十八莊、三十三社に区分されました。

    四十六保の内、その全て、または大部分が今の嘉義にあったものは、牛稠溪保今新港郷)、柴頭港保(太保市、水上郷、嘉義市一帶)、大目根保(竹崎郷)、打?東保(民雄郷、大林鎮、梅山郷、竹崎郷、雲林県古坑郷一帶)、打?南保(民雄郷、溪口郷、新港郷一帶)、打?北保(大林鎮、溪口郷、雲林県大?郷一帶)、大?田西保(朴子市、布袋鎮、東石郷、鹿草郷一帶)、龍蛟潭保(布袋鎮、義竹郷一帶)、白鬚公潭保(布袋鎮、鹿草郷、義竹郷、台南県後壁郷一帶)、大?榔東保(太保市、鹿草郷、雲林県北港鎮、水林郷一帶)、鹿仔草保(鹿草郷)、大?榔西保(朴子市、太保市、六?郷)です。その一部分が今の嘉義県に含まれていたものは、下加冬北保(鹿草郷、台南県白河鎮、後壁郷一帶)、下加冬南保(水上郷、台南県新營市、白河鎮、後壁郷一帶)です。

    今の嘉義県にある莊、社は、元の管轄地と同じです。

    四十一街市の中で、今の嘉義県にあるものは、水堀頭街今水上郷)、笨港街、土獅仔街、朴仔街(朴子市)、竹仔街(朴子市徳家里)、大田街、白鬚公潭街(義竹郷)、打猫街、蘆麻街、大埔林街(大林鎮)、鹿仔草街、榕樹王街(朴子市)です。
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