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歴史的沿革

    原住民地区の開拓

     
    台湾の原住民族は南島語族(オーストロネシア語族)に属し、現在の嘉義県一帯は、平埔族の洪雅族(ホアニヤ族)と原住民の鄒族(ツォウ族)が生活していました。

    1624年、オランダ人は当時フォルモサと呼ばれていた台湾島に進駐、1630年代初期には魍港にまで勢力を広げます。オランダ人がWancan、Wanckan、Wankan等と呼んだ魍港は、明の鄭成功時代には「莽港」、「蚊港」、清代以降は「蚊港」と呼ばれた今の布袋鎮好美里一帶です。諸羅山(嘉義市)以外の村社、打?社(民雄郷東栄村、中楽村、西安村一帶)は、1643年10月にオランダ人への納税を承認しました。1644年3月21日、打?社、清朝初期の県の中心から10里離れていた阿里山社、奇冷岸社(梅山郷東辺山区部落)、今の阿里山郷或は高雄県三民郷に位置する干仔霧社(或は嫻仔霧社、簡仔霧社)の代表は、赤?(台南市中西区)で開かれた地方会議に参加し、オランダは恭順の徴として「長老」の権威を表す杖を与えました。1646年2月28日に阿拔泉社(梅山?)、1647年3月19日には豬母?社或いは豬母?(阿里山?達邦村特富野)も地方会議に参加します。この時から諸社は毎回の地方会議に参加し、オランダの長官により「長老」に再任、または新たに任命されました。

    明の永暦十五年(1661年)四月、鄭成功(1624-1662)は台湾に上陸しました。鄭成功はオランダ人による原住民政策を踏襲し、各社に「土官」(オランダ占領時の「長老」)を設けました。しかし七月、鎮営官兵の問題が引き金となり、大肚社(台湾中部海岸線地区の原住民の総称)で武装蜂起が勃発しました。そのため援剿後鎮、智武鎮でも蜂起が発生したため、今の嘉義県と嘉義市の境界あたりまで退き、そこで土地の開拓と住民の防衛にあたったのです。

    清朝統治時代、清朝はオランダや鄭氏の統治政策を踏襲し、「土官」を設け原住民による自治を認めました。清朝康熙六十一年(1722年)、地方官議は「生番処所から数十里、或は十数里に境界線として石を建て、進入を禁止する」と定めます。これは現在の嘉義県境を示す標石で、埔姜林(中埔郷社口、石頭?至中埔、頂埔)、白望埔(中埔郷同仁、深坑一帶)、大武巒埔(番路郷番路一帶)、盧麻産内埔(竹崎郷内埔村)、打?の牛屎?口(竹崎郷沙坑)、葉仔?口(民雄郷葉仔寮)、中?仔口(大林鎮中坑)、梅仔?山(梅山至?頭一帶)に置かれ、境界に沿って関が築かれました。(今の嘉義県梅山郷太平村の太平山尾根沿いには、乾隆三十三年(1768年)三月建立の「民番界碑」が現存しています。)

    清朝初期の「阿里山離縣治十里許」は乾隆七年(1742年)までに阿里山八社にまで広がりました。阿里山八社とは、大圭佛社(即ち大居佛社、大龜佛社、今の阿里山郷茶山、新美村)、??婆社(即ち??婆社、?)、嫻仔霧社、沙米箕社、踏枋社(阿里山郷達邦村)、豬母?、鹿株社(即ち鹿楮社、今の南投県信義郷和社)、阿拔泉社(いずれも「生番」となりました)。
    清の乾隆三十一年(1766年)十一月、彰化に「民番」との交渉管理機関として台湾府「北路理番同知」が置かれましたが、これは「熟番」が特に設けた「理番」機関でした。

    同治十三年(1874年)牡丹社事件の後、沈葆禎(1820-1879)は「開山撫番」政策により、漢人による原住民地区の開拓と原住民の漢化を積極的に進めました。

    光緒元年(1875年)六月、沈葆楨は北路同知を中路同知と改め、水沙連(南投県竹山鎮)に移す事を奏上、この時から「撫民」の文字が加わり、中路撫民同知は「生番」のための統治機関になりました。また「招撫局」は「開山撫番」のために設けられました。光緒三年(1877年)、丁日昌(1823-1882)は「生番」統治のための機関として、「撫番開山」、さらには「撫番公局」、「招墾局」を設けました。

    光緒十二年(1886年)劉銘傳(1838?-1897)は大??(桃園県大溪鎮)に「全臺撫墾総局」を設け巡撫を直轄とし、また原住民地区に「撫墾局」や分局を開設し、「撫番」を推し進めました。さらに「撫墾局」と分局の下部組織として「換番官市局」或いは「換番貨市局」が併設されて、原住民の交易に便宜が図られました。

    当時の斗六門(雲林県斗六市)の県丞(副県知事)陳世烈は、林?埔雲林坪(南投県竹山鎮)撫墾局を設置し中路山区を積極的に開発しました。

    日本による台湾統治時代は、民生局殖産部が原住民に関する事柄を取り扱いました。

    明治二十九年(1896年)四月、清代に設置された「撫墾署」と同様に、台湾総督直轄管理機関が十一箇所に設けられました。「林?埔撫墾署」もその一つで、嘉義、雲林両支庁がそれらの区域を管轄しました。

    明治三十年(1897年)五月、「林?埔撫墾署」は嘉義県の管轄におかれました。

    明治三十一年(1898年)六月、「撫墾署」は廃止され、「弁務署」第三課が原住民の事務を引き継ぎました。嘉義弁務署は台南県の管轄となりました。

    明治三十四年(1901年)、行政区分により弁務署が廃され、十の庁が組織されましたが、そのうち十三の庁が原住民地区である「番地」を含んでいました。嘉義庁もその一つです。これにより原住民の事務は各庁の総務課が扱うことになりました。
    大正九年(1920年)、阿里山「番地」は嘉義郡に併合。

    民国三十五年(1946年)四月、嘉義の「番地」は呉鳳郷となり、民国七十八年(1989年)三月、阿里山郷に改名されました。
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