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    県定・新港奉天宮天上聖母の元宵遶境信仰-新港郷 Print
    歴史沿革: 新港の元の名は「麻園寮」で、清乾隆年間には一面麻が植えられた土地でした。しかし新港の最初のフルネームは「笨新南港」で、後に「新南港」と略称され、その後さらに「新港」と略されました。日本統治時代、新港という地名が非常に多かったため、港の字のさんずいを削除して「新巷庄」にし、第二次世界大戦後になって元の「新港」に戻りました。つまり、新港の地名の変遷から見て、「新港」と「笨港」は密接な関係があり、新港は歴史、文物、住民の由来において笨港の化身であり、住民が天災人災を受け、漳籍の居民が集団で移住した場所で、笨港の延長集落と見なすことができます。 1621年、劉定国が湄洲の天妃廟の媽祖祖聖像に加護を願い、ともに台湾へと渡り、安全に険しい「黒水溝」(台湾海峡)を越え、途中笨港に着くと、媽祖がこの地に永住せよと指示しました。ここから笨港住民が交代で祀るようになったことから、「船仔媽」と呼ばれるようになりました。 清康熙三十九年(1700年)、笨港住民は笨港渓流南方に資金を集めて「天后宮」を建立。乾隆年間、笨港渓の流れを変えて笨港の街を二分し、北は笨北港、南岸を笨南港と呼ぶようになりました。 『諸羅県志』の記載によると、笨港は当時すでに台湾で最も繁栄した街のひとつで、笨港天后宮は、台湾で参拝客が多く訪れる媽祖廟でした。嘉慶年間になると、笨港渓は何度も氾濫して災害が起こり、笨港の街は埋没し、笨港天后宮も非常に危険な状態で、当時の住職僧景端が、廟の神像、文物を守って比較的高い場所にある「麻園寮」(現在の新港)に移りました。そして、笨南港は天災、人災のもとで次第に没落していきました。 当時、笨南港から移住してきた住民の多くが裕福な名門家柄であったため、笨港に富、文物をもたらしただけでなく、恩を忘れないという精神を持ち続け、麻園寮を「笨新南港」に改名し、「白鶴穴」に廟を建立して、笨港人の精神の中心——笨港媽祖廟を再び築きました。この地は当時の何姓の人の所有地で、この何姓の先人は快く土地を寄贈し、12年を経て、嘉慶十六年(1811年)に新廟建立が竣工しました。当時の水軍提督の王得禄将軍が皇帝に上奏し、奉天宮の名を賜りました。ここから、笨港媽祖の線香の火は新港地区で延々と絶えることなく、現今現在ではすでに台湾媽祖の信仰の中心の一つとなっています。
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